昭和43年8月12日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするのに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
これは、あー、日頃頂いております、うー、通りでございますが、んー、なんでも同じです。やはり、いー、十のものが、あー、やーつ出来たから、九つ出来たからと言うて、成就したのではない。やはりその、十というものを、通らなければ出来ない。ね。すっきりとか、すっかりおかげを頂くためには、やはり、井戸ざらえと同じ、その井戸ざらえの例を持って、ここでは、御理解下さってあるんですが、えー、私は、もう、例えよし、井戸ざらえを致しまして、そして、良い水が出るようになって、おかげを頂いてまいりましても、それがもう、年々、再々、おかげを頂いていくうちに、何時とはなしに、垢ができる。何時とはなしに、苔が生える。ね。えー、何時とはなしにまた、あー、濁ってくる。またそこに、えー、あらためて井戸がえをする、うー、機会を、おー、得なければならないのです。という事を今日は、二十八節の中から、あー、頂きたいと思うのです。ね。皆さんの場合は、今、井戸ざらえの真っ最中ですよね。いわゆる、信心が何十年続きますと、んー、なるほど、信心は続いておりましても、おー、何とはなしに、いー、生きたものと言うかね、んー、生き生きとしたものが欠けてくる。やはりあの、更なものとして頂くために、猛反省をする、ね。んー、反省をさせてもらって、やはり、いけないものはいけないとして、改めていくという事が大事である。えー、この度、御本部で、えー、御取次ぎ成就信心生活運動が始まりまして、えー、十九年になる。御道の信心が、あー、おかげを頂かれるようになって、えー、来年は百十年を迎えようとしておる。その、百十年という大きな節を目指して、まあ、お互いの信心というものが、盛り上げられる。そういうおかげを頂きたいというのが、今度の、あー、全教大会の願いであったろうと、こう思うのでございますが、全国の、それこそ、津々浦々の教会の、教会長も、おそらくは、あー、一人残らずでございましたでしょうね。今度は、あー、ここに、いろいろな事情もございましてから、あー、しん、あー、教祖様の、就任式もございまして、その、教祖様の、おー、御名を持っての、召集を受けたわけでございますから、もう、ほとんど全部が集まったと、先生方はもう、全部が集まられたわけでございます。そして、二日間にわたっての、おー、ま、お話を頂き、また、教義懇談を、が、熱心に、えー、繰り返され、また、続けられました。それで、私は、感じたことは、この事でしたですね。やはり、百年という、ね。ま、来年は百十年という大きな節というか、そういう節に当たる。まあ、百年も経ちますと、やはり、何とはなしに、苔落としが必要である。いわば、一応は、井戸がえが綺麗に出来ておったのでしょうけれども、またそれが、いつの間にか、また、井戸がえを必要とするような時期が、教団の上にも来ておると言う事でございます。そこでその、えー、ここへまあ、井戸ざらえを求められる訳でございますが、その方法として、どうあられたらいいかと、あったら良いかと言う事が、まあ、教義、または懇談の、いつの場合も焦点になりました。
百年経ちましたから、どのように、お道の信心が発展し、どのようにお育てを頂いてきたかと、えー、これはまた、余談でございますけれども、丁度、おー、十日の夜、ある用件がございましてから、委員長夫妻と私と一緒に、えー、本部の、偉い先生のお宅に、いー、お邪魔致しました。えー、もうほんとに、金光教の、現代の金光教の中でも名門の先生のお宅でございますから、えー、まあ、ほんとにその、何と言うですかね、信心の、んー、金光様のご信心の素晴らしいところが、そこそこに、隅々まで感じられるというお宅です。ところがですね、その、御取次ぎ成就信心生活運動と言う運動を展開されなければならないほどに、いー、信心生活が、あー、乱れてきておるという事を気付かれたのが二十年前ですね、丁度。いや、十九年前、厳密に言うと。それでその、御取次ぎ成就信心生活運動なるものが、十九年続けられてまいりましたが、あー、果たして、えー、その、御取次ぎが、どのような形で成就しておるか。また、どのような形で、信心生活が出来ておるかという事になりますと、おー、これは、一つの形式とでも申しましょうかね。形というものに、この重点が置かれてきたという感じ。それでもう、それこそ、私共の、まあ、田舎、信心の田舎者ですね。本部あたり出ますと戸惑いをするくらいに、やはり、きちっとしたもんです。ところがその、内容にはです、生き生きさ、いわゆる、ピリッとするようなものが、全然感じられないと言う事です。ね。まあ例えて、ここの例をとりますならば、えー、ここの、家庭の信心生活。ね。例えばほんなら、子供達の場合でも、おー、まあ、私のほうで、一番下の栄四郎とか、幹三郎とか、直子とかと、まあ、言うその、連中でもですね、その、三人なら三人が一部屋に集まってお話し合いをする時には、確かに信心が中心で話しよる。信心の共励をしておると言う事ですよ。ね。そういうようなものが感じられない。ね。いや、むしろその、金光教の信心にですね、何とはなしにその、抵抗を感じておる。どうも可笑しいと言うておる。そういう雰囲気すらが見えるんですね。その、おー、いわゆる、信心生活運動と言うのが、こげんせんならんというふうに育ってきて、その育てられて来たのに、あの何、生きたものが伴うていないから、その、合点がいかん。ね。この場合なんかは、こうせにゃならん、ああしちゃならんという形は全然出来てないけれども、そこに、何と生きたものを感じますから、ね。その生きたものに生活が支配されておる。ね。ま、そんな感じです。そこで私は、その、百十年もならっしゃる、ああいう大規模な事はまあ、先ず、教団始まって、初めてでございましょう。ね。全国の、津々浦々の教会長が、その、御本部に集まると言う事は、ね。春秋の大祭なんかには集まりますけれども、これは、四日間なら四日間に分けてからの、集まることですから、その一堂に集まる。しかも、そのー、教主の命によって召集を決定したのは、今度が初めてだ。そして、取り上げられる問題は、さあ、いよいよ、百十年を来年に控えておるが、どのような信心生活になって行ったら良いのか、御取次ぎを成就していくためには、どういう風にあったら良いのかというのが、私に言わせると、非常に熱心ですけれども、焦点を間違えておる、ポイントがまち、狂っておるという事でした。ね。これはだから、現在の教団だけのことだけじゃない、お互いの信心生活の上においてもです、ね。お取次ぎ成就と言う事が、家庭の上に、どのような風にして現れておるのか。信心生活というのが、どのような、あー、状態で、信心生活が出来ておるかという事をですね、改めて検討してまいりませんと、お育てを頂きよるようでありましても、そのお育てがです、形式、形のことになって、もう、例えば、ほんなら私共が、段々、んー、年をとって参りまして、もう、あちらの家庭は信心五十年、六十年になられるというような頃には、生きたものが無くなってしまっておるような事であってはですね、相すまんことですから、ね。
えー、御神訓に、んー、神は、あー、遠きも近きも、えー、昼夜、ね。昼も夜も問わざるものぞと。頼む心、信頼心に、ね。頼む心に隔てなく祈れと。ございますがね。ですから、今も昔もです、同じなんです、神様の働きは。ね。だから、神は今も昔も、問わざるものぞという事になる訳です。ね。百年前だからといって、だから、昭和の、現代、今日であっても同じだと言う事。問題は、かわってきておるのは、信頼心が、に隔てが出来てきたのです。頼む心に。ね。信頼心が、例えば、あー、信頼心とは、信じて頼む心と書く。ね。信じて頼むその、心が、段々、信じて頼む心というものが無くなって来た。いよいよ、教団の上にもです、改めて、井戸ざらえの必要を感ずる。ね。どう言うような信心させて頂いたら、その、百十年前に帰る、いわゆる、うー、教えの、昔に帰ることが出来るか。
お互いの信心も、これは、いつもここで言われますようにですね。そのー、生きた働きを受けておると言う事は事実ですけれども、なら、生きた働きを受けて、おかげを受けておるだけの信心が続いたっちゃ駄目なんです。ね。銘々の信心の焦点というものが大事なんです。ね。それには、やはり、御取次ぎが、本当の意味で成就していくと言う事と、ね。御取次ぎ成就というのはね、その、私共がお取次ぎを願ったことが成就していくと言う事じゃないのです。ね。天地の親神様が、金光大神を差し向け、ね。願う氏子におかげを授けと、こう仰るけれども、願う氏子におかげを授けというところは、お取次ぎの成就じゃないのです。願う氏子におかげを授け、ね。理解申して聞かせと仰る。ここが大事なんです。ね。お取次ぎを頂いて、お願いをして、おかげを頂いたという事が、お取次ぎが成就するのじゃないのです。お取次ぎが成就するというのは、その先の、ね。願う氏子に、何にも分らん氏子が参ってきても、おかげを取り次いでやれよと、けれども、その後には、理解を申して聞かせよと。ね。天地の間に住む人間は、みんな神の氏子と、人間、いわゆる、生きとし生けるもの、全てが天地の御恩恵により、天地のお恵みの中にあって、お恵みを受けなければ、立ち行かない私達であるという事。ね。ですから、神恩報謝の心というものがね、もう、百年目になったら、もう、百年目になっただけ、その神恩報謝の心というものが強うならなければいけないのだ。ところが、親になり、子になり、孫になりにしたがって、金光様のご信心に、いわば、疑問を感ずるようになってくると言う事は、ここが出来てない証拠です。ね。天地の大恩と言うかね、天地の御恩恵に浴しておる、その、天地の御恩恵に浴しなければ立ち行かないという事をです、いよいよ、深く、広く、分っていかなければいけない。ね。そこにです、そこんところを、説いて説いて、説き明かしよるのだけれども、お取次ぎを頂いて、おかげを受けると言う事は頂いていきよるけれども、後の半分の理解申して聞かせというところがです、ね。理解を申しても聞かせよろうけれども、理解を理解せず、ね。ただ、体の良いおかげ信心に留まっておるから、いつの間にか、生きたものをなくしてしまった。ね。信心のお育てを頂くと、また、願わなければならんけれども、ね。どのようにして、お互いの信心が育つか、どのようにして、育てるという事に対して、あの、どこを焦点にして育てるか。こら、先生方の話し合いの後、そこになってくるんです、いつも。信者はどのように育てるか。まあ、極端に、分りやすく言うなら、信者が一生懸命教会におまいりをして、そして、教会の御用でも、どんどん、出来るようになるように、ま、育てなければならないという事になるんです。ね。だから、そこが間違ごうておる、私に言わせると。ね。そしてそれが、あんばいよう育てばよいけれども、そういう形のことだけを、信心するようになったら、信者になったら、こういう風にならなきゃならんという、形のことだけは出来て、それに生きたものが伴わないから、それが、形だけになってしまう。言う事、することは、なるほど立派なようであるけれども、内容に生きた何物もない。いわゆる、言うならば、生きた喜びがない。その生きた喜びが元になってのおかげではない事になる。ね。いわゆる、信頼心のあるものが、欠けてくる。ね。信じて頼むというその心が欠けてくる。ね。信心のお育てをいただくと言う事はです、どこまでも、ね。天地の御恩徳をきって切り離すことは出来ないものだ。その御恩恵、御恩徳に寄らなければ、私共が、ね。幸せになって行くことも、おかげを頂いていくことも出来ないのだと。ね。そこんところをです、いよいよ、おー、形ではない、頭ではない、心の底から分っていくところのおかげ、神様のおかげに寄らなければ、立ち行かんという事を分っていく事のために、いよいよ、信頼心を強くしていくことのために、信心の焦点が置かれなければならない。
どういうわけにその、おー、信者が育たないかと、というような、えー、事に、いつも出るお話が手続きと言ったようなことにでる。ね。手続き関係。ね。けども、それはそうでしょうけれども、それよりか、もういっちょ向こうのもの、ね。問題はもう、信心を頂くもの、一人一人がです、ね。おかげは和賀心にありという、ね。和らぎ喜ぶ心にありという、何とはなしに、和らいでは行くごたる、形の上に、和らいだような感じはあるけれども、喜びのここ、和らぎ喜ぶ心というものがない。ね。喜ぶ心というのは、喜ぼうとして喜べるものではない事を、まず知って、ね。神様に、本当に、喜んでいただけるような信心。それは、お供えでもなからなければ、お参りでもない、ね。神様に喜んでいただくと言う事は、いよいよ、本心の玉を研いていくことであり、日々改まって行くことであるという事にです、言う話が出らない。ね。そういう信心になるから、神様のお喜びが、お喜びとして、私共に、帰ってくるのだけれども、ね。和らいでいく形のことは、出けて行きよっても、肝心要のおかげの元になるところの、喜びの心というものが、希薄になってくる。薄うなっていく。ね。神は、今も昔も、問わざるもの。昔は、生き生きとしたゴヒレイを頂いたけれども、おかげは頂けたけれども、現在では頂くようになったと。現在では、本当に不思議だ、奇跡的だといったようなおかげは無くなって来たと。それは、頼む心に隔てが出来てきたからだ。信頼心が無くなって来たからだ。ね。信心のお育てを頂かなければならないと言う事は、ね。信心のお育てを頂かせて貰うて、信心が育ってくるなら、今、ほんなら教団で出るというかね、ま、私が、今度参りましてから、話し合いの中に出ました、その話の中にです、ね。どういうような信心させて頂いたら、和賀心、いわゆる、喜ぶ心がいただけるか。その喜ぶ心が育つ。天地の御恩徳をいよいよ深く、広く分らせて貰うて、ね。それに、いわゆる、いよいよ、神恩報謝の生活が出来る。私はね、もう、教会に参らんならんとか、ね。色々、御用しなければならないとかと言ったような事はです、ね。この、おー、和らぎ喜ぶ心と言うものが、大きく育っていけばいく、行けばです、教えんでも、また、頼まんでもです、それが出来てこなければ嘘なんです。ね。今、形の上では、こうあらなきゃいかん。金光様の信奉者は、こうなからなきゃいかんと、言うようなことを教えんでもです、それよりかもっと、新たな、ね。例えば、もっと新たな、いわば育ち方。もっと素晴らしい育ち方がです、もう、それこそ、教団いっぱいにですね、出来てくる。いよいよ、教団の力とも、ヒレイともなるような働きがそこから生まれてくる。
まあ、これは、私が、今度、御本部から帰りましてから、ここの二日間にわたってから、お話を頂いてまいりました、その中から、私が感じた事ですけれども、これは、教団、その事じゃありません。ね。こら、私共自体の事としてです、ほんなら、合楽は、立派なお取次ぎ成就がでけ、お取次ぎ成就の事になっていきよる、信心生活は出来ておるかと、という事に、先ず、おかなければならん。なるほど、生きたヒレイというものは、あっておる。いわゆる、願う氏子におかげは授けというところのおかげは現れておる。けども、理解申して聞かせ、理解申して聞かせられておるのだけれども、ね。果たして、ほんなら、天地の御恩徳が、いよいよ、自分の信心の内容に、いよいよ深いものになっていきよるか。いよいよ、わが、ね。和らぐ心、喜ぶ心というものが一緒に、育って行きよるか、ね。その、育って行きよる様子というか、姿が、そのまま、今、教団で求められているところの御用である。ね。育って行きよる姿なんです。だから、こうしなければ、ああしなければならんという前に、先ず一つ、お互いの信頼心を、もっと強く、高めていくと言う事と同時に、いよいよ、和賀心に焦点を置かして貰う信心。ね。まあ、そういう意味でです、現在の教団が、ここへ、百十年と言うお年柄を迎えるに当たってです、ね。今年あたりからですね、井戸ざらえの事をしなきゃならん。だから、井戸ざらえをしなければならないと言う事は分ってきたのですね。私は、それを有難いと思う。ね。教団の危機とか、教団の曲がり角とかというふうに言われる。ね。そんなら、井戸ざらえをすると言う事は、どういう事を改めていかなければならないかと言う事なんです。それがその、焦点が私に言わすと違っておる。そげなこっじゃなか、そういうこっじゃない。と、私は、いちいち思うようなこと。ね。それでは、和賀心が生まれてこない。それでは、本当の育て方にはならん。ね。どういう事を、改めて行かなきゃならんか。ね。ほんなら、教師、先生方ばっかりの会。教師自体がです、ほんなら、現在、あなたの心の中に、和らぎ喜ぶ心が、どれほどあるかと、ね。その、信心は、ね。一年一年有難うなってくると仰るが、ね。一年一年、なぜ有難うなってくるかというとです。ね。いよいよ、天地の御恩徳というものが身に沁みてくる。どこを見ても、どこを聞いても、ね。有難い対象にならないものがないのです。それが、深くなってくるから、段々有難うなってくるが、その、一年一年有難うなって行くと仰るが、果たして、どのくらい有難うなって行きよるか。これは信者じゃないですよ、私共自身が本気で、もっと有難くならせて頂く稽古しなければいけん。ね。それには、親教会とか、手続きという事も大事でもあろうけれども、それよりも何よりも、自分自身がです、ね。本気で改まらせて貰うて、ね。和らぎ喜ぶ心を頂かせてもらうという事をですね、先決問題にしなければならんと、言う事以外の話が、例えば出ましてもね、それは、私は、本当の井戸がえにはならんと。はー、もう、進展はなかった。今度の大会に参加して、こら先ず、私自身が助からなければならんのだ。私自身が助かるためには、今までの行き方では間違っておったんだと、何人の教師が、そこんとこを頂いて、今度帰っただろうかというふうに、私は心配する。ね。お互い、やはり、百十年という年柄を来年に迎えさせて貰うのでございますから、合楽教会としても、ま、おかげを、いよいよ頂きたいと、こう思います。ね。ほんなら、教団全体の事ではなくてもです、ね。私共と致しましてもです、ね。神は、今も昔も問われるものではないのである。ね。ですから、こちらの信頼心というものを、いよいよ強くしていくために、いよいよ、和賀心、ね。和の心と、賀の、喜びの心というものを、平行して育っていくような信心に焦点を置いて、信心が続けられていくならばです、そっから、いよいよ、喜び、いよいよ、信頼の心というものは、強うなってきて、ね。そこから、本当の、私は、教団の言う井戸ざらえの、んー、時期が来ておるというような意味でですね、私共が、先ず、一つ、ね。こう言うようなものを、取り除かせて貰い、こういうようなものを、頂いていかなければならんという、行き方をですね、示して行きたいというよりも、私共自体が頂いて、それをおかげに現していかねばいかんと。しかし私は思います。今度、これは、ほんとに、合楽自体がおかげ頂いて行かにゃならんがですね、おかげ頂いていっても、その、あのおかげというのが、どこから生まれてきておるかという事がですね。こんな話が出たんですよ、余談ですけれども。その、教会が大きくなるとか、信者が沢山集まるとかといったような事は、その、んー、えー、神様の、ま、ゴヒレイではないと。ね。そういうような意味の話が出たんですよ。それに、みんなが賛成されるんです。ばってん、あんた達は馬鹿んごたるこつばっかり言うのち、私は言いたかったんです、本当に。ぞうたんのごつ、そら、教会が大きくなっていって、沢山の信者が集まってきます。これがゴヒレイでなくて何であろうか。そげなこっじゃなか。教会は小さかったっちゃ、信者は少なかったっちゃ、ね。本当の信心が育って行きよらなければ、本当の神のヒレイじゃない。なるほど、ほんなら、合楽の教会に、全部が全部、本当の信心を身に付けていきよる訳じゃなかろう。けれども、その、幾人かの人でもですね、本当の信心を頂いていきよるからこそです、なら、枯れ木も山の賑わいというような賑わいになってくるのです。ね。教会が大きくなるという事は、神様のゴヒレイだ。沢山の人が集まると言う事は、そこに、難儀な氏子が、取次ぎを願って集まってくるのであるから、神のヒレイ。ね。だから、これは、とてもとても、合楽私共がですね、私共が言うておるようなことが、まあだ、こりゃ、一時、二時じゃ、通用しないなというような事を実感して帰りました。ね。ですからその、なるほど、そこに、理がないわけじゃないのです。ね。ただ、烏合の衆がごじゃごじゃ集まっとるだけじゃいかんと。本当の信心を目指してと、言うものが育って行きよらなければヒレイじゃないといわれておるが、それも、あーた、本当なんですけれども、だから、今日、私が申しますようにね、本当の信心がですね。理解申して聞かせと仰るところを、本当に理解していくという信心。ね。そして、一年一年有難うなっていく、一年一年、天地の御恩徳が身にしんでいく。そこに、本当の、喜びの生活が、ね、信心生活。ね。そういう信心生活が出来ることを私は願いとした信心。ね。ですから、教団でその、取り上げられたその事も、おー、なるほど、合点が行くところも、やっぱり在る訳ですよ。ね。そこで、私共が、それを思わなければならん事はです。ね。ただ、その、おー、沢山なものが、ここに集まって、まあ、いわゆる、がやがや言うておるだけでは、なるほど、ヒレイでないと言われても仕方がない。ね。本当の信心が身に付いて、お互いの信心が育って行きよるという事にならなければ、やはり、そうではないのですから、ね。銘々が一つ、大いに反省させてもらって、ね。我こそは、本当の信心を目指しておるという事にですね、置き換えられなければいけない、という事を、ま、感じました。
教団の、いうなら、井戸ざらえと、いう事を、おー、まあ、私は、思いましたがです。なら、どういうようなものをさらえるかと。どういうようなものを、改まっていくかという、その焦点が違うておるような気がした。ね。合楽が、だから、間違えずに、そこんところを、一つ頂いていかねばならんと、まあ、願っておるんですけれども、これは、私だけの願いであってはならない。みんなの一人一人が、それどころではないという、願いに立ってから、信心が進められていかんと、ほんなら、合楽が、五十年、六十年経った先にです、また、同じような事を繰り返さなければならない事になるじゃ無いかというふうに思います。ね。どうぞ一つ、んー、今日の御理解は、普通はね、その、井戸ざらえと言う事が、ね。七分や八分目でやめては、いつまでたっても水が濁っておると。だから、そこんところを、辛抱しぬいて、井戸ざらえをしなければならんという事を説いてございますけれども、教団、百十年の、おー、その、歩みと言うものを思うてです、教団自体が井戸ざらえをしなければならない時期に私は立っておる。ね。私共も、そこんところを、間違いのない、井戸ざらえをさせて貰わなければならんというふうに感じます。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日